w'ANDのつれづれノート

w'AND illustration代表の佐藤祐輔が考える絵のこと、仕事のこと、社会のこと・・・そんなことを日々つづっていきます。

“2つの工場”の思考実験〜“思い”とは何か?〜

w'AND illustration代表の佐藤祐輔です。

 

昨日の記事“与沢翼氏と絵描きとしての矜持”で「自分の愛着のある商品は大切に扱ってほしい」ということを書きました。
ひとつひとつの絵には私の「思い」がこもっています。

手作りの商品にはよく「作り手の思いがこもっている」といわれます。
その「思い」が大量生産の商品とは異なるため、付加価値として評価されます。

 

では、この「思い」とはいったい何なのでしょうか?
それを考えるために、思考実験“2つの工場”を思いつきました。

 

思考実験 “2つの工場”

 

Cynthia Vardhan Ceramics Dish SetCynthia Vardhan Ceramics Dish Set / *NEXT* design for your modern home

 

あるところに工場が2つ、並んで建っています。
外観は地味で、さほど目立つ建物ではありません。
2つはよく似ており、ぱっと見には区別が難しい。
その工場では陶器の皿を製造しています。
絵付けから最後の梱包まで、一貫して行っています。
この陶器の皿は「人の手の温もりが感じられる」と評判です。

 

それもそのはず、片方の工場では職人さんがひとつひとつ、丁寧に絵付けをし、人の目で温度管理をした窯で焼き、ひとつひとつ梱包しているのです。
その工程が「人の思いがこもっている」という評判の源なのです。

 

もう一方の工場に目を転じてみましょう。
こちらの工場では、製造ラインがすべて機械化されています。
絵付けも窯の温度管理も梱包も、すべて機械が行っています。

この完全に機械化された工場でも、同じように陶器の皿を製造しています。
実はこの皿、隣で職人さんが手作りしている皿と全く同じ見た目をしています。
「人の手で作られた証拠」としてよくあげられる「ひとつひとつの絵付けがふぞろい」という点も、機械にランダム要素をプログラミングすることで実現したのです。
それだけではありません。
温度管理の際の「人の勘」も完全にプログラミングされ、職人さんが管理するのとまったく同じ方法で機械が窯を管理しています。
ある特殊な感性をもつ方には人の手に成ることをオーラのようなもので感じるそうですが、機械でもそれを再現することに成功しました。

このように、職人さんが作った陶器の皿と、完全機械化された工場で作られた陶器の皿は、まったく一緒のものです。

 

これでも、一方は「人の手のぬくもりがある」と、一方は「機械による大量生産」と言い切れるでしょうか?

 

思いは“物語”に宿る

 

Reading on a sunny late-winter afternoonReading on a sunny late-winter afternoon / Ed Yourdon

 

完全機械化工場では職人さんの作るものを完璧に再現することができました。
では、人の手が作ったものと機械が作ったものには全く違いがない、ということになるのでしょうか?

 

よくよく考えてみると、完全機械化工場にはひとつ、決定的に足りない部分があることに気づきました。
それは“物語”です。

 

絵付けをする職人さんたちは、どうしてその絵にしたのかを知っています。
窯の管理をする職人さんたちは、なぜその温度に保つのかを知っています。
木の箱に梱包していく職人さんたちは、なぜその木を使って梱包するのかを知っています。

 

機械化工場を作ったエンジニアは非常に優秀でした。
職人さんの作業工程をすべて模倣することができる機械を作り上げたのです。
しかし、ひとつだけ忘れていたことがありました。
「なぜその作業が必要なのか?」という、作業工程の背景にある「なぜ?」を知らなかったのです。

 

職人さんたちは自分たちが作る陶器の皿について、その背景を語ることができます。
一方、機械化工場はそれを語ることができません。
この物語が、商品に対する思いそのもののように感じるのです。

 

もちろん、物語は語られなければ存在しないも同じです。
だから、思いは物語を語って始めて宿るものなのです。
“営業嫌いの背後にあるもの”で書いたように、どんなに良いものでも、それを発信しなければ知られることはないのです。
陶器の皿の背景を語らなければ、職人さんの工場の製品も、機械化された工場の製品も、同じものだとして流通することになるでしょう。

 

<補足>
“2つの工場”の思考実験は哲学者ジョン・サールが考案した“中国語の部屋”を下敷きにしています。

ある小部屋の中に、アルファベットしか理解できない人を閉じこめておく(例えば英国人)。この小部屋には外部と紙きれのやりとりをするための小さい穴がひとつ空いており、この穴を通して英国人に1枚の紙きれが差し入れられる。そこには彼が見たこともない文字が並んでいる。これは漢字の並びなのだが、英国人の彼にしてみれば、それは「★△◎∇☆□」といった記号の羅列にしか見えない。 彼の仕事はこの記号の列に対して、新たな記号を書き加えてから、紙きれを外に返すことである。どういう記号の列に、どういう記号を付け加えればいいのか、それは部屋の中にある1冊のマニュアルの中に全て書かれている。例えば"「★△◎∇☆□」と書かれた紙片には「■@◎∇」と書き加えてから外に出せ"などと書かれている。
彼はこの作業をただひたすら繰り返す。外から記号の羅列された紙きれを受け取り(実は部屋の外ではこの紙きれを"質問"と呼んでいる)、それに新たな記号を付け加えて外に返す(こちらの方は"回答"と呼ばれている)。すると、部屋の外にいる人間は「この小部屋の中には中国語を理解している人がいる」と考える。しかしながら、小部屋の中には英国人がいるだけである。彼は全く漢字が読めず、作業の意味を全く理解しないまま、ただマニュアルどおりの作業を繰り返しているだけである。それでも部屋の外部から見ると、中国語による対話が成立している。
Wikipedia「中国語の部屋」より)

この思考実験はもともと、「コンピュータが人間と同じような反応を示したら意識をもっているといえるのか?」を考えるために考案されました。
非常に興味深い思考実験ですので、ぜひご自身で調べてみてください。