w'ANDのつれづれノート

w'AND illustration代表の佐藤祐輔が考える絵のこと、仕事のこと、社会のこと・・・そんなことを日々つづっていきます。

【震災関連】世界がひっくり返った日〜東日本大震災回想〜

w'AND illustration代表の佐藤祐輔です。

 

今回は東日本大震災当日に起こったことを記します。
なかにはあの日のことを思い出すのも辛い方もいらっしゃるでしょう。
もし辛いと感じられたら、どうぞこのウィンドウを閉じてください。

 

こうしてあの日のことを書き記すのは、私自身のリハビリでもあります。
地震から1年半近く、自分が軽いPTSDになっていることに無自覚でした。
小さな地震でも身体が硬直したり、心臓が飛び上がったり。
そうした反応が「怖い」という感情と「理不尽だ」という思いに原因があることが、地震から1年半以上経ったある日、カウンセリングのセッションで気づいたのです。
そのときに、記憶の欠落があることにも気づきました。

 

あの日の出来事を思い出すこと、それをあらためて受け止め直すことが、この先に進んでいくための最良の方法であると思っています。

 

津波被害に遭われた方ほどの苛烈な経験ではないかもしれません。
が、これは直接、東日本大震災を体験した人間の記録です。
もしかしたらなにか、お役にたつこともあるかもしれません。

 

いまからちょうど2年前、14時46分に東日本大震災が発生しました。
マグニチュード9.0というかつてない規模の地震。
広い範囲で強い揺れが観測されたとともに、過去最大級の津波が東北地方沿岸部を襲いました。
その影響で福島第一原発が爆発、放射性物質の飛散という事態にまで発展しました。
そのとき、私は仙台に住んでおり、この地震を直接体験しました。

 

地震からおよそ3ヶ月後の6月末に、私は仙台から東京に引っ越しました。
こちらにいると、地震があったことがうそのようです。
もしかしたら、多くの人が「地震は過去のこと」と思っているのかもしれません。
けれど、現実的には被災地の復興活動は進んでおらず、処理しきれないがれきが山積みになり、家の建て替えも進まず仮設住宅暮らしの方も多いようです。

 

この未曾有の地震でさえ、おそらくいつかは忘れられていくでしょう。
それでも、この地震を体験した者として、なにか残しておけるものはあると思うのです。
ですから、私自身の体験を、ここに残しておきたいと思います。

 

2011.03.11 日常の始まり

2011年の3月11日は金曜日でした。
週末を利用して東京にいく予定で、着替えやら何やらを入れたスーツケースをもって職場にいきました。
混み合ったバスにスーツケースを持ち込むのはなんだか申し訳ない気持ちもありましたが。
バスは青葉山にある東北大学の工学部キャンパスに向かいます。
職場に着いたのは7時40分。
いつもと変わらない一日の始まり、のはずでした。

 

メールをチェックすると、共同研究をやっている企業の方からいくつかメールがありました。
3月9日にあった地震を心配してのことです。
3月9日の地震はマグニチュード7.3、最大震度5弱の大きな地震でした。
幸い、この地震で大きな被害はなく、いただいたメールに感謝の旨、返信したのでした。

 

普段は会議が詰まっていることが多かったのですが、この日はとりたてて会議もありませんでした。
さほど作業も忙しくなく、定時になったらさっさと新幹線にのってそのまま東京に行くつもりでした。

 

2011.03.11 14時46分

ゆらゆらと揺れが始まりました。
なんとなく嫌な感じの揺れでしたが、3月9日にも地震があったため、また同じようにおさまるだろうと椅子に座っていました。
しかし、揺れはなかなかおさまりません。むしろ、大きくなっていくように感じます。
なにかおかしいな、と思った瞬間、強烈な横揺れがやってきました。
椅子に座っていられないほどの強い揺れ。デスクに手をかけて支えようにも、デスク自体が動いてしまうので支えにもなりません。

「机の下に潜ってください!」

職場の誰かが叫びました。もう立っていられないほどの揺れです。
なんとかデスクの下に潜り込むと、パソコンやディスプレイが落ちる音があちこちから聞こえてきました。
重たいレーザープリンターが目の前に転がってきたのもこのときです。
あのまま椅子に座っていたら直撃したであろう場所に転がってきました。
デスクに潜っていなかったらけがをしていただろうと思うと、いまでもぞっとします。

 

揺れは2度、やってきました。
1度めの揺れがおさまってデスクからはい出し、避難しようとしたときです。
1度めほどの強さではありませんでしたが、なかなか揺れがおさまらないことに強い不安を感じた人も多かったでしょう。
職場のところどころから、すすり泣きのような声が聞こえました。

 

大きな揺れは賞味1分〜2分くらいだったと記憶しています。
数字にしてしまうと短い時間ですが、実際にその揺れのなかにいると、とても長い時間のように感じました。

 

デスクからはい出してみると部屋の中はめちゃくちゃになっていました。
パソコンやディスプレイは倒れてあちこちに散乱。デスクの配置もぐちゃぐちゃに。
幸い、当時の仕事部屋には本棚がなかったため、大型の本の落下などはありませんでした。
2つあった冷蔵庫が倒れていたようにも思いますが、記憶が定かではありません。

 

「みなさん、とりあえず避難しましょう」
そう言ったのは当時の准教さんです。普段からマイペースな方でしたが、ここでもそのマイペースっぷりが発揮されていました。
この惨状を目の前にして呆然としながらも、とにかく避難しなければなりません。
ここで自分の携帯電話がどこかにいってしまっていることに気づきました。
そこで恐怖感が押し寄せてきました。この大災害にあって、連絡手段が絶たれてしまうのは致命的と感じたのです。
その恐怖心に一瞬パニックになりかけました。が、件の准教さんに声をかけてもらい、ひとまず避難することになったのです。

 

2011.03.11 緊急避難

いつもやっている避難訓練通り、支給されているヘルメットをかぶり、非常階段を通って外にでました。
外ではすでに建物から避難してきた人たちが多数集まり点呼をとっている最中でした。
その間にも余震は続いています。
ワンセグ放送でニュースをチェックしている人に画面をのぞかせてもらいました。
どうやら“とんでもない出来事”が起こったようです。けれど、その全容はその場でははっきりしないままでした。
わかったのは「これまでにない巨大な地震が起こった」ということだけ。

 

点呼が終わり、一通りの安全確認ができたところで帰宅の指示がでました。
なんにせよこのままいても仕事にはならないし、なにより危ないからです。
それに、土日が明ければまたもとどおりになっているだろう、と楽観的に考えていたのもありました。
いったん仕事場に戻ってスーツケースを持ち出しました。紛失したと思っていた携帯電話は落ちた紙の資料に紛れていました。これで連絡手段も確保できます。
そしてそのまま仙台駅に向かうつもりでした。

 

どうやらバスは動いていなさそうです。
しかたなく徒歩で帰宅することに。
同じ方面の同僚と一緒に、青葉山をくだる道を歩き始めました。

 

帰宅途上、研究棟のところどころから小さな爆発音が聞こえてきました。
何かが焦げるような臭い、火薬の臭いがかすかに漂ってきます。
揺れの影響で混ぜてはいけない薬品が混ざったり、大型の実験装置が壊れたりしたのでしょう。
大勢の人たちが不安げに歩いている中を、私も歩いていきました。

 

キャンパス内の道のあちこちが盛り上がったり陥没したりしていまいた。
壁が崩れたり、フェンスがゆがんでいたりもしています。
なかには傾いた研究棟もありました。
車はほとんど走っておらず、マスコミか自衛隊のものであろうヘリコプターが飛び交い始めていました。
不穏な空気は感じていました。
けれど、やはり週明けにはまた元通りになっているだろう、という思いがこの段階では強かったと思います。
同僚と笑い話をしながら、家まで歩いていきました。

 

2011.03.11 帰宅

青葉山をくだり、広瀬側を渡る大橋を通るころ、なにかがおかしいと感じ始めました。
歩いている人が非常に多いのです。道路いっぱいに人が歩いています。
工学部という性質上、危険な薬品や設備があるために避難指示が出たのだとばかり思っていたのですが、どうやらその程度で済む話ではなさそうです。
大橋の途中でたまたま友人に出くわしたので話を聞いたところ、どうやらとんでもないことになっているらしい、ということがおぼろげながらに実感されてきました。

 

ちょうどそのとき、しめった雪が吹雪のように降り始めました。
目の前が見えなくなるくらいの強さです。
私はそこから家が近かったのでよかったのですが、同僚はそこからさらに歩かねばならず、大変な思いをしたことでしょう。

 

当時住んでいたマンションにたどり着くと、大勢の人たちが外にでていました。
マンションの壁面がところどころはがれおちて、コンクリートの破片がそこらじゅうに散らばっていました。
エントランスに入るとエレベーターは停止中、ここで初めて停電していることに気づきます。
しかたなしにスーツケースを抱えて10階にある自室まで階段で上りました。

 

部屋に入るとひどい状態になっていました。
棚が倒れて部屋に通じる入り口が塞がれており、それを乗り越えるのに一苦労した記憶があります。
電気はすべて停止。水道も確認しましたが、水もでません。
このままここにいても、また揺れがくるおそれがあるので、いったん外に出て、仙台駅の様子を見に行くことにしました。
本来ならばこのまま新幹線に乗って東京にいくつもりだったのです。
それをどうしたらいいのか、判断する必要もありました。

 

2011.03.11 変わり果てた光景

仙台駅に向かう道はずいぶんと変わり果てていました。
コンビニや飲食店はほとんどが閉店、普段ならば活気のある時間帯のはずが、人の気配すらありません。
あちこちのビルから看板が落ち、ガラス窓が落ちているところもありました。
いろいろなものが落下し散乱している道路は、まったく見慣れない変わり果てた姿で、ことの重大さがだんだんと見に染みてきました。

 

その間にも余震は続いています。
歩いていても感じるくらいの余震が何度も何度も繰り返しやってきます。
その度毎に心臓がどきどきと高鳴り、身体が緊張しました。

 

駅へ向かう途中、アーケード街を通ることもできたのですが、天井が落下してくる危険性もあるために避けました。
地下道も同じ理由で避けて通りました。

 

歩いておよそ30分、空が暗くなり始めたころに仙台駅に到着しました。
周辺には人だかりができています。
スーツ姿の人も多数みかけたので、職場から避難してきた人たちが電車に乗って帰ろうとしていたのでしょう。
なかにはおそらく、仙台に出張してきた人たちもあったはずです。
にしても、なぜこんなに人が駅周辺にいるのかよく分かりませんでした。
いずれにせよ、駅に入れば状況くらいはわかるだろう、と。

 

しかし、仙台駅は封鎖されていました。
入り口の扉はすべて閉じられ、中に入ることができません。
電車をあてにしてきた人たちが移動手段をなくして、駅の周りにたまっていたのです。
在来線はすべて停止、新幹線も止まっています。
駅員さんに聞いたところ、新幹線の再開は1ヶ月ほど先ではないか、とのこと。

再開まで1ヶ月?

新幹線が1ヶ月も止まるなんて、現実味のない話に聞こえました。けれど、現実に新幹線が再開したのは1ヶ月後の4月でした。

 

2011.03.11 不穏な空気

仙台駅周辺はぴりぴりした空気に包まれていました。
地元の人たちだけでなく、たまたま出張で仙台にきていたひとたちもいます。
土地勘のないところでこんな大災害にあったのだから、不安も緊張も人一倍と思います。
あちこちから怒鳴り声や喧嘩の声が聞こえてきました。
日が落ちて暗くなってきています。
停電のおかげで信号はとまり、街灯もほとんどついていません。
このまま暗くなったら、何が起こるかわかりません。
少なくとも、自分の身の安全は確保する必要があります。
とにかく今日はいったん引き上げて、この後のことは明日考えることにしました。

 

実は、仙台駅から家に戻るまでの間の記憶が一部欠落しています。
暗い夜道を歩いて戻ったのは確かなのですが、どうしても思い出せないのが「どこで現金を確保したのか」というところ。
おそらくこの状況ではクレジットカードは機能しない、とにかく現金を手に入れるべきだ、と判断したのは覚えています。が、停電でATMも止まっているはず、どうして現金を手にしたのか、覚えていないのです。
※銀行からおろしたのはたしかです。後日確認したところ、たしかに引き出した記録が残っていましたから。

 

いずれにせよ、現金を確保した後、家に戻ります。
途中、最寄りの避難所(小学校の校舎でした)の様子を見に行ったのですが、続々人が集まってきており、とても入れる余地はなさそうでした。
部屋はめちゃくちゃになってしまったけれども、マンション自体が崩れているわけでもなし、危険なのはどこも同じだろうと判断し、部屋に戻って夜を明かすことにしました。

 

2011.03.11 一日の終わり

外はすっかり夜になっています。
停電のため、街には明かりがほとんどありません。
ところどころ見える明かりは、非常用電源か自家発電装置のものでしょう。
もしかしたらたき火の明かりかもしれません。
こんなに暗い夜は山にキャンプにいったときくらいしか記憶にありません。
それほどに、非現実的な光景でした。

 

救助に向かうであろうヘリコプターの音があちこちから聞こえてきます。
いつもは車の音が聞こえてくる外からは、ヘリの音以外聞こえてきません。
携帯電話であちらこちらに安否の連絡を入れながら、私の3月11日は終わっていったのでした。

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