w'ANDのつれづれノート

w'AND illustration代表の佐藤祐輔が考える絵のこと、仕事のこと、社会のこと・・・そんなことを日々つづっていきます。

“2つの工場”の思考実験〜“思い”とは何か?〜

w'AND illustration代表の佐藤祐輔です。

 

昨日の記事“与沢翼氏と絵描きとしての矜持”で「自分の愛着のある商品は大切に扱ってほしい」ということを書きました。
ひとつひとつの絵には私の「思い」がこもっています。

手作りの商品にはよく「作り手の思いがこもっている」といわれます。
その「思い」が大量生産の商品とは異なるため、付加価値として評価されます。

 

では、この「思い」とはいったい何なのでしょうか?
それを考えるために、思考実験“2つの工場”を思いつきました。

 

思考実験 “2つの工場”

 

Cynthia Vardhan Ceramics Dish SetCynthia Vardhan Ceramics Dish Set / *NEXT* design for your modern home

 

あるところに工場が2つ、並んで建っています。
外観は地味で、さほど目立つ建物ではありません。
2つはよく似ており、ぱっと見には区別が難しい。
その工場では陶器の皿を製造しています。
絵付けから最後の梱包まで、一貫して行っています。
この陶器の皿は「人の手の温もりが感じられる」と評判です。

 

それもそのはず、片方の工場では職人さんがひとつひとつ、丁寧に絵付けをし、人の目で温度管理をした窯で焼き、ひとつひとつ梱包しているのです。
その工程が「人の思いがこもっている」という評判の源なのです。

 

もう一方の工場に目を転じてみましょう。
こちらの工場では、製造ラインがすべて機械化されています。
絵付けも窯の温度管理も梱包も、すべて機械が行っています。

この完全に機械化された工場でも、同じように陶器の皿を製造しています。
実はこの皿、隣で職人さんが手作りしている皿と全く同じ見た目をしています。
「人の手で作られた証拠」としてよくあげられる「ひとつひとつの絵付けがふぞろい」という点も、機械にランダム要素をプログラミングすることで実現したのです。
それだけではありません。
温度管理の際の「人の勘」も完全にプログラミングされ、職人さんが管理するのとまったく同じ方法で機械が窯を管理しています。
ある特殊な感性をもつ方には人の手に成ることをオーラのようなもので感じるそうですが、機械でもそれを再現することに成功しました。

このように、職人さんが作った陶器の皿と、完全機械化された工場で作られた陶器の皿は、まったく一緒のものです。

 

これでも、一方は「人の手のぬくもりがある」と、一方は「機械による大量生産」と言い切れるでしょうか?

 

思いは“物語”に宿る

 

Reading on a sunny late-winter afternoonReading on a sunny late-winter afternoon / Ed Yourdon

 

完全機械化工場では職人さんの作るものを完璧に再現することができました。
では、人の手が作ったものと機械が作ったものには全く違いがない、ということになるのでしょうか?

 

よくよく考えてみると、完全機械化工場にはひとつ、決定的に足りない部分があることに気づきました。
それは“物語”です。

 

絵付けをする職人さんたちは、どうしてその絵にしたのかを知っています。
窯の管理をする職人さんたちは、なぜその温度に保つのかを知っています。
木の箱に梱包していく職人さんたちは、なぜその木を使って梱包するのかを知っています。

 

機械化工場を作ったエンジニアは非常に優秀でした。
職人さんの作業工程をすべて模倣することができる機械を作り上げたのです。
しかし、ひとつだけ忘れていたことがありました。
「なぜその作業が必要なのか?」という、作業工程の背景にある「なぜ?」を知らなかったのです。

 

職人さんたちは自分たちが作る陶器の皿について、その背景を語ることができます。
一方、機械化工場はそれを語ることができません。
この物語が、商品に対する思いそのもののように感じるのです。

 

もちろん、物語は語られなければ存在しないも同じです。
だから、思いは物語を語って始めて宿るものなのです。
“営業嫌いの背後にあるもの”で書いたように、どんなに良いものでも、それを発信しなければ知られることはないのです。
陶器の皿の背景を語らなければ、職人さんの工場の製品も、機械化された工場の製品も、同じものだとして流通することになるでしょう。

 

<補足>
“2つの工場”の思考実験は哲学者ジョン・サールが考案した“中国語の部屋”を下敷きにしています。

ある小部屋の中に、アルファベットしか理解できない人を閉じこめておく(例えば英国人)。この小部屋には外部と紙きれのやりとりをするための小さい穴がひとつ空いており、この穴を通して英国人に1枚の紙きれが差し入れられる。そこには彼が見たこともない文字が並んでいる。これは漢字の並びなのだが、英国人の彼にしてみれば、それは「★△◎∇☆□」といった記号の羅列にしか見えない。 彼の仕事はこの記号の列に対して、新たな記号を書き加えてから、紙きれを外に返すことである。どういう記号の列に、どういう記号を付け加えればいいのか、それは部屋の中にある1冊のマニュアルの中に全て書かれている。例えば"「★△◎∇☆□」と書かれた紙片には「■@◎∇」と書き加えてから外に出せ"などと書かれている。
彼はこの作業をただひたすら繰り返す。外から記号の羅列された紙きれを受け取り(実は部屋の外ではこの紙きれを"質問"と呼んでいる)、それに新たな記号を付け加えて外に返す(こちらの方は"回答"と呼ばれている)。すると、部屋の外にいる人間は「この小部屋の中には中国語を理解している人がいる」と考える。しかしながら、小部屋の中には英国人がいるだけである。彼は全く漢字が読めず、作業の意味を全く理解しないまま、ただマニュアルどおりの作業を繰り返しているだけである。それでも部屋の外部から見ると、中国語による対話が成立している。
Wikipedia「中国語の部屋」より)

この思考実験はもともと、「コンピュータが人間と同じような反応を示したら意識をもっているといえるのか?」を考えるために考案されました。
非常に興味深い思考実験ですので、ぜひご自身で調べてみてください。

与沢翼氏と絵描きとしての矜持

w'AND illustration代表の佐藤祐輔です。

 

与沢翼氏という方が話題になっているようです。
1月13日から2週間、関東のJR前線に黄色の広告を出していたのを目にされた方も多いことでしょう。
“与沢翼氏の総額3800万円かけた『JR広告ジャック』が話題に”
ご自身の会社が資金ショートで倒産した後、元手10万円から2ヶ月で2000万円の利益をあげたそうです。

 

私はこの与沢さんという方に大変な嫌悪感を抱いています。
その理由について、私なりに考えてみました。

 

与沢氏の評価すべき点

「ネタフル」コグレマサト氏推薦!「ネタフル」コグレマサト氏推薦! / yto

 

「嫌悪感を抱いている」と書きましたが、与沢氏のすべてを否定しているわけではありません。
評価している点ももちろんあります。

従来のアフィリエイトでは、ブログやメルマガなどで読者にアフィリエイト商材を紹介して報酬を獲得します。
従来の方法で大きな利益をあげるためには、ブログやメルマガの読者数を増やす作業が必要となり膨大な時間がかかります。
一方、彼の方法では、まず広告主となって短期間のうちに顧客リスト(メールアドレス)を大量に入手し、それと同時に今度はアフィリエイターとして顧客リストに対して商材を紹介して報酬を獲得しています。
つまり、従来の方法と比較して圧倒的に「速い」のが特徴です。
しかし、広告主となって顧客リストを取得する段階では、500円/件のマイナスとなるため大きなリスクを伴います。
(ACラボ“与沢翼が10万円の元手から2ヶ月間で2千万円の利益を上げた方法”より)

この記述によれば、通常のアフィリエイトとは異なり、まず自分が広告主として出稿することでメールアドレス10万件を取得するところから始めています。10万件のメールアドレスを取得するには5000万円のコストがかかるそうです。その10万件のメールアドレスをつかって7000万円の利益をあげたため、差し引き2000万円の利益、というわけです。

 

アフィリエイト情報商材に関する是非はともかく、与沢氏が2000万円の利益をあげたことは事実です。
その際、「最悪の場合5000万円の負債が発生する」というリスクを負っています。
ノーリスクハイリターンを求めがちな多くの人にとって、このリスクは背負いきれないものでしょう。
それでもこのリスクを負ってリターンを得た、という点は、多いに評価すべきだろうと考えています。

 

※日本人には「可能な限りリスクはとりたくない」という心理が強く働いているように思います。けれど、リスクをとらなければリターンは得られません。リスクを最小化する努力は必須ですが、「そもそもリスクをとらない」というところに問題があるようにも感じますが、これは別の話。

 

嫌悪感の源

Silk Factory MachinerySilk Factory Machinery / danielfoster437

 

与沢氏は短期間で2000万の利益を出すため、情報商材を扱いました。
ここでひとつ疑問が。
もし同じ方法で利益をあげられるのなら、扱う商品は情報商材でなくても良かったのではないか?
たとえば壷だったり絵だったり石油だったりしても、仮にまったく同じ手法がとれるのなら、与沢氏はどんな商品でも扱ったのではないか。
こんな疑問です。

 

私は自分の絵とともに、その絵に込めた思いもお客様に届けたいと思っています。
その思いとは「絵を飾ると、その空間に訪れた人がほっと安心できること」です。
ですから、カフェやレストラン、クリニックなどにおすすめしているのです。

 

この思いを抜きに「この商品は儲かるから」という思いで扱ってほしくない、と感じるのです。
お金に変えることにこだわるあまり、私の思いとは違うところに売られてしまったり、極端な安売りをされてしまったりするのではないか、という危惧があるのです。

 

これはなにも与沢氏に限ったことではありません。
おそらく「中間業者」と呼ばれる人たち全般に私が感じていることでしょう。
それがたまたま、与沢氏に関する記事などを読んで噴き出してきたものだと思います。

 

私は絵描きです。自分の描いた絵に愛着をもっています。
「愛着のあるものを大切にしてほしい」というのが私の正直な思いであり、矜持です。

 

日本はものづくりで世界をリードしてきました。
ところが昨今、日本製品はなかなか売れずに苦しんでいます。
「良いものさえ作っていればいい」という時代ではなくなってきているのです。
“「良いものはかならず売れる」のウソ”
その影響か、「100円のコーラを1000円で売る方法 」といった販売やマーケティングに関する本がたくさん出版されるようになってきました。

 

これは良いことだと思います。
従来弱かった部分を補完しよう、という動きですから。
ただ、「売る」ことにばかりフォーカスがあたってしまうことにも危惧をもっています。
「売る」ためには前提となる商品が必要です。「売る」ことを気にかけるあまり、商品を作るひとをないがしろにしてしまうのではないか、という不安があるのです。

 

私は絵描きであることに誇りをもっています。
価値を創造する仕事ですから。

あまりきれいではない共感覚

w'AND illustration代表の佐藤祐輔です。

 

みなさんは共感覚というものをご存知でしょうか?
ある音を聞くと色が見えたり、数字が色に見えたり、味が触った感覚として現れたり。
このようにある感覚が別の感覚と結びつく現象を“共感覚”と呼ぶのだそうです。
近頃は下火になっているようにも思いますが、昨年あたり、本やテレビで取り上げられたことで多くの人の関心をひいたようです。

 

Massage at Witches Falls CottagesMassage at Witches Falls Cottages / Witches Falls Cottages

 

先日、肩がひどくこったのでパートナーにマッサージをしてもらいました。
特に左肩がしびれたような感じになっていて、触ってもほとんど感覚がないほどです。首筋から肩、肩甲骨まわり、背中、と上から順にほぐしていってもらいました。

ちょうど肩甲骨まわりにさしかかった頃です。
なにやら目の前にピンク色のちかちかする光が見えたと思ったら、メリーゴーランドのイメージが見えたのです。暗い、おそらく夜を背景にしているであろう場所で、ピンクと黄色と白の光が右から左に流れていくのです。そのイメージをあえていうとメリーゴーランドなのですが、実際にはいくつかの色の光が動いていくイメージでした。
その後、マッサージの部位が変わるたびに、異なる光景が見えるようになりました。

  • 青白い部屋(動きのない黒と青)
  • ギャングイルカ(激しく上下に動く青と白と黒)
  • 西洋甲冑(グレーとオレンジの背景に金属光沢のような白い点)

といった感じです。明確にそのイメージがあるわけではなく、あえて言葉にするとこのような感じになります。
見えたものを逐一報告すると、パートナーは大笑いして喜んでくれました。

 

正直言って、これを共感覚と呼んで良いものかどうかわかりません。
背中を触られると奇妙なイメージが見える、というのは「音が色で見える」という一般的な共感覚のイメージのようにきれいで繊細なものではありません。私自身、単に「変な体質」としか捉えていませんでした。

Wikipediaの定義によると共感覚とは

女性の高い声を「黄色い声」などと言うように、人類、あるいは特定の環境・文化において複数の種類の感覚を結びつける比喩的習慣が広く存在するが、共感覚はそのようなものと直接は関係しておらず、共感覚を持たない人には感じられない上述の数字に色を見るなどの感覚を、主観的な知覚現象 (クオリア) として生々しく感じている。 共感覚は五感のような基本的な感覚の種別に関してだけではなく、感情や単語や数などに関して起こることもある。 共感覚者の間での複合した知覚の関係に相関は認められていない。 例えば、ある人がある文字を青く感じたとしても、他の共感覚者が同様に感じる傾向があるとは限らない。
Wikipedia共感覚」より)


となっています。数字に色を感じる人ならば1は黒、2は赤、といったように結びつきがはっきりしているでしょう。ところが自分の場合、同じ場所を触ってもらっても同じイメージが見えるとは限らないため、定義からはずれているようにも思うのです。
※部位ではなく、触ったときの感覚(痛い、くすぐったい、気持ちいい)と結びついているとしたら、部位とは関係がなくても定義には合致しそうですが。

 

円周率表 1,000,000桁表。ネタ以外にもランダムに数字を選べは乱数表としても使える実用書。円周率表 1,000,000桁表。ネタ以外にもランダムに数字を選べは乱数表としても使える実用書。 / kayakaya

 

共感覚について語られるとき、サヴァン症候群も合わせて語られることが多いようです。共感覚を持ち合わせる人にサヴァン症候群の方が比較的多くみられるためだそうです。
サヴァン症候群とは

  • ランダムな年月日の曜日を言える(カレンダー計算)。ただし通常の計算は、1桁の掛け算でも出来ない場合がある。
  • 航空写真を少し見ただけで、細部にわたるまで描き起こすことができる(映像記憶)。
  • 書籍や電話帳、円周率、周期律表などを暗唱できる。内容の理解を伴わないまま暗唱できる例もある。
  • 並外れた暗算をすることができる。
Wikipediaサヴァン症候群」より)

というように、「知的障害・自閉症障害があり、かつ特定の分野に驚異的な能力を有する」状態を指します。特定の分野に関しては非常に高い能力を示すため、しばしば天才の代名詞のようにも扱われます。
サヴァン症候群の方がしばしば共感覚をもっていると思われることから、共感覚が優れた能力をもっていることの証のようにとられることもあるようです。

 

Googleで検索すると「あなたも共感覚がもてる!」といった文句のページが散見しました。
共感覚がもてれば自分も特別な存在になれる!」という思いがあるのでしょう。
自己研鑽も良いものですが、それがたとえば「周囲に一目おかれたい」というような目的であるのならおすすめはしません。

 

マッサージしてもらった後、肩はとても楽になりました。
と同時に、ちかちかといろんなものが見えたため、目の辺りはかえって疲れてしまいました。
共感覚をもっている人の中には「複数の感覚が同時にやってくるので疲れて仕方がない」と訴える方も少なくないそうです。

【震災関連】東日本大震災で学んだ知っておくと便利な6つのこと

w'AND illustration代表の佐藤祐輔です。

東日本大震災から間もなく丸2年。
先日も“理不尽さとともに生きる〜東日本大震災から2年目に思うこと〜”という記事を書きました。
被災者の視点から、もう2、3の記事を書いていこうと思います。
今回は地震のときに具体的に役に立った知識や準備について。実際に被災した者の立場から、なにか少しでもお役にたてれば、と思います。

 

私自身が実際に知っていて便利だったことは次の6つです。

  1. 自転車は常に用意すべきである
  2. ノートパソコンはそれ自体が充電器になる
  3. 都市ガスは復旧に時間がかかると心得よ
  4. 肉類は塩をふって干しておくと良い
  5. 断水になっても公園では水が出る可能性がある
  6. 水洗トイレに洗浄剤を使ってはいけない

ただし、これらは仙台市中心部のように「沿岸部のように甚大な被害は受けていないが、日常生活には支障をきたす程度の被害を受けている」地域で有効です。津波被害が出たらこんなことをしている暇はありませんのであしからず。

※たとえば「水は○○リットル用意すべし」とか「家に入るときは靴を履いたままで」といった良く知られていることはここでは除いています。

 

1.自転車は常に用意すべきである

Bicycle RepetitionBicycle Repetition / dailyinvention

大きな地震があった場合に備えて、自転車は確保しておくべきです。

東日本大震災直後、広範囲にわたって停電とガソリン不足が発生しました。この場合、燃料を必要とする移動手段(車、バイクなど)は使えなくなる可能性が非常に高くなります。揺れの影響で線路がゆがみ、電車が不通になることも考えられます。そうなると、移動手段としては自転車が非常に有利になります。

ただし、電動アシスト自転車はだめです。停電してしまった場合、充電ができなくなり、電源ユニットが重しになって負担がかかってしまうからです。

 

2.ノートパソコンはそれ自体が充電器になる

Bryant Park, late Apr 2009 - 21Bryant Park, late Apr 2009 - 21 / Ed Yourdon

もしかしたらこれは盲点かもしれません。

スマートフォンはUSBケーブルがあればノートパソコンからでも充電が可能です。ノートパソコンをスリープモードにしておけば電力消費も抑えられますし、携帯バッテリーに比べて容量も大きいため、スマートフォンの充電には適しています。停電時にノートパソコンがフル充電になっていれば比較的長期間、スマートフォンのバッテリーの心配はなくなります。

地震直後、仙台市内も停電しました。
その期間、有志が商店街のあちこちに自家発電機を設置して携帯機器を充電できるようにしてくれていました。そこには長蛇の列。震災直後はできることも少ないので並んでも良いのですが、あの行列を見てしまうと、自前でできるものは自前でしたい、と思ってしまいます。
仙台市中心部でもっとも早く電力が回復した仙台駅周辺では、コンビニやファーストフード店が店先を解放して電源をとれるようにしてくれていました。が、人が多く極端なたこ足配線になるため、充電には時間がかかります。私も試しましたが、いつもは1時間程度で充電が終わるところ、6時間ほどかかりました。

手回し充電器も要注意です。
安価に手に入る手回し充電器には整流器がついていないため、電流電圧が安定しません。そのため、スマートフォンのように比較的大きな電力を必要とする機器の充電には向きません。手回しで役に立つのはラジオと懐中電灯。
「自分で発電したいが燃料をつかう発電機まではいらない」という場合、自転車にとりつけて発電できる発電機があります。たしかAmazonで売っていました。整流器がついているので、携帯機器の充電にもじゅうぶん使えます。

 

3.都市ガスは復旧に時間がかかると心得よ

ガスコンロのようなガスコンロのような / snoozer05

地震直後、仙台市内は広い範囲にわたって都市ガスが停止しました。
ガス供給施設が被害を受けたのもありますが、一番の原因はガス管の破損です。
都市ガスは復旧まで非常に時間がかかります。私の住んでいた地域でも、復旧まで1ヶ月以上かかりました。
都市ガスのガス管は地中に埋め込まれています。そのため、揺れの影響で破損している可能性があります。ガスの供給そのものは、新潟などから融通してもらうことで継続できていました。しかし、破損した可能性のあるガス管にガスを流してしまうと、爆発等の危険性があります。そのため、地中のガス管の破損状況をひとつひとつ確かめながら、ガス供給を再開するのです。

この作業には数万人規模で人員があてられたと聞いています。市内のあちこちで東京ガスや大阪ガスといった腕章をつけている方をたくさん見ました。当時住んでいた私の部屋にガスの安全確認にきてくれた方は、東京ガスの方でした。

ガスよりも電気の方が早く復旧する可能性が高いため、IHなどの電気で調理できる機器をひとつでももっていると、非常時には役にたつことでしょう。

 

4.肉類は塩をふって干しておくと良い

何日目か(数え忘れた)の干し肉。だいぶ縮まった。何日目か(数え忘れた)の干し肉。だいぶ縮まった。 / monoprixgourmet_bis

停電になったときに気になるのが食糧の保存です。特に肉・魚などの生ものはいたみが非常にはやくなります。

冷凍保存しておいたものは、停電した後もそのまま冷凍庫においておけば比較的長持ちします。冷凍した食材自体が保冷剤の役割を果たすからです。冷凍庫の断熱効果がそれに加わるので、数日は解けることはありません。

ただ、冷蔵庫に置いていた肉類は危険です。市販のハムやベーコンも、封を切ってあればすぐにいたみます。
いたむ原因は水分。水分をなるべく減らすことができれば、長期保存が可能になります。
停電が長期にわたりそうだと判断したら、冷凍していない肉や魚はすぐに軽く塩をふって水だしすることをおすすめします。その際、キッチンペーパーなどで水分をふきとるのがベストですが、地震直後で物資が少ないときはキッチンペーパーも貴重です。そこで、塩をふった肉や魚は網の上に載せておきましょう。
その際、直射日光があたらず風通しの良いところで陰干し状態にするのが理想です。温度が上がりにくく雑菌が繁殖しにくいためです。
このように塩をして干物にしておくと、生ハムかジャーキーのような状態になるので、火を通さなくても肉が食べられるようになります。非常食として便利です。

 

5.断水になっても公園で水が出る可能性がある

Tap WaterTap Water / jcheng

私も知らなかったのですが、断水になった際でも、公園などの公共施設の水道からは水が出る可能性があります。

「断水の際も公共施設には優先的に通水される」ということなのだそうですが、この真偽は分かりません。
私の感じた限りでは「マンションの給水施設は電力を使うため、停電とともに水道が機能しなくなる」というのが正解と思います。そのため、給水所が被害を受けていなければ公園などの水道からは水が出るはずです。

ただし、揺れの影響で水道管の内側に付着したゴミが水道水に混ざっており、濁った水がでてきます。そのまま飲んでも影響がない範囲だとは思いますが、気になる方は濾過した方が良いでしょう。

 

6.水洗トイレに洗浄剤を使ってはいけない

這是胖胖水瓶底這是胖胖水瓶底 / Una_Pan

水洗トイレのタンクには水がたまっています。この水を飲用にするのはおすすめはしませんが、飲用にしなければならない事態も発生するでしょう。
そのとき、ブルーレットなどの洗浄剤を使っていると、タンクの水に洗浄成分が入り込んでいるため、飲用にできなくなってしまいます。
マンションが断水した際、私は水洗トイレのタンクの水が使えないかを試しました。残念ながらそのときは洗浄剤を使っていたため、飲用にできる状態ではありませんでした。

 

以上、私が体験した範囲で「これは便利」と思ったことです。ひとつでもお役に立つことがあれば幸いです。
なお、東京消防庁が地震に対する備えについてまとめたページがあります。こちらもご参考になさってください。

【絵のこと】循環システムとしての植物

w'AND illustration代表の佐藤祐輔です。

私は「循環」の考え方をとても重視しています。
とくに植物はその「循環」の象徴であると考えています。

 

先日、ツーバイフォー建材を組み上げて壁を本棚にしました。
“憧れの壁面本棚を2x4木材15本で手作りしました”
これまで使っていた本棚よりもおおく入るため、すこし余裕ができています。
あまった空間は飾り棚として活用。日陰にも強い観葉植物を置きました。
植物のある空間はとても良いものです。

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パキラです。すくすくと育ってほしいものです。

 

私は植物をよく絵のモチーフに使います。

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こちらは7年前の2006年に制作した"Water Cycle"という絵です。
2004年から2006年にかけて、りそな総合研究所が会員向けに発行している「りそなーれ」という雑誌の表紙を担当していました。"Water Cycle"は2006年7月号の表紙です。

 

植物は物質の循環の要だと、私は考えています。
その考えを持ち始めたのは、仙台で一人暮らしを始めた頃でした。

 

当時、私は東北大学の化学系研究室に研究員として勤めていました。
それほど給料がよくなかったので実家暮らしだったのですが、勤めはじめて2年、研究室への貢献が認められて給料が上がりました。一人暮らしが十分可能な額でしたし、通勤時間をなるべく短縮したかったのもあり、職場の近くのマンションに引っ越すことにしました。
東北大学青葉山の中に広大な敷地をもっています。教養部と文系学部は山のふもとに、理系学部は山の奥まったところにそれぞれキャンパスがあります。職場の近くに住もうと思うと、どうしても山のそばになります。
私が選んだのは片平という、仙台の中心街からすこし離れたところでした。すぐ近くが広瀬川で、ベランダからは青葉山が見渡せます。視力の良い人なら仙台城趾にある伊達政宗像を見つけることもできました。

 

MountainsMountains / Moyan_Brenn

 

春が近づき、だんだん暖かくなってくるころ。
朝方、向こうに見える山並みからもうもうと蒸気が立ち上るのをみることができました。山の樹が活発に活動をし始めて、吸い上げた地中の水分を大気中に放出しているのです。
その様はまるで、森から雲が生まれていくようでした。

 

「蒸散」と呼ばれる現象です。
植物は地中から水分を吸い上げます。下から上へ、重力に逆らうのですから、吸い上げるためにはエネルギーが必要です。植物は葉から水分を蒸発させることで上部の水分量を低下させ、その濃度差を利用して上に水分を送り届けます。

この「蒸散」の現象が、私には「植物を介した自然の水循環システム」のようにみえました。
地中に蓄えられた水分を植物が吸い上げます。植物が吸い上げた水分は葉から蒸発していきます。蒸発した水分は空に達して雲になり、その雲はやがて雨を降らせて地上をうるおします。それをふたたび植物が吸い上げて・・・
このような水の循環が成立するのです。

 

私はこの「循環」という考え方が気に入りました。
以降、「循環」の視点から物事を見るようになっています。
水分だけでなく、物質やエネルギー。人の動きや経済も循環として捕えることができると考えています。
植物は私が物事を考えるためのテーマのひとつでもあるのです。

 

“次世代に手渡すのは「生きる術」”に書いたことは、まさに世代間の循環のようなものです。

次世代に手渡すのは「生きる術」

w'AND illustration代表の佐藤祐輔です。

ちかごろよく、「自分の次の世代」のことを考えます。
いまはまだ、自分の仕事を軌道に乗せるのが最優先です。
けれど、まだ「その先」があります。
年齢を経ていくにつれ、ともに仕事をしていく相手はどんどん年下になっていくでしょう。
そうなったとき、自分はいったいどうするのか、を考えるのです。

 

Jack Whinery and his family, homesteaders, Pie Town, New Mexico  (LOC)Jack Whinery and his family, homesteaders, Pie Town, New Mexico (LOC) / The Library of Congress

 

パートナーのおじいさんの法事に参加してきました。
50回忌だそうです。亡くなったのが50歳と3ヶ月。生まれてから100年経った計算になります。今から100年前というと1913年、第一次世界大戦の前年にあたります。

100年という年月を長いと感じるか、短いと感じるかは人それぞれと思います。
私自身は「100年」と聞くととっさに「たった100年?」と感じます。
人生80年と言われる現在、2〜3世代が経過するくらいの時間です。100歳でご存命の方も多くいらっしゃるということもあり、それほど極端に長い時間とは感じません。

ところが、100年前に何があったか、と考えると、1913年、第一次世界大戦の前年です。
携帯電話もパソコンも存在せず、現代戦車の原型となるものがようやく出てきた時代です。世界大戦というとナチスドイツのイメージが強いかもしれませんが、アドルフ・ヒトラーはこの戦争では一人の兵士として従軍していました。100年前のカラー写真なんて見ることはできません。
そう思うと、100年という年月の長さを強く感じます。

 

Happy Children Playing KidsHappy Children Playing Kids / epSos.de

 

パートナーのいとこにはすでに結婚して子どもがいる人たちもいます。
法事の前後では元気に走り回ったりしていました。
この子たちは、私が2つの世界大戦を知らないように、ベルリンの壁崩壊も、ソ連崩壊も、湾岸戦争も、9.11の同時多発テロも知らない世代です。その次には東日本大震災を知らない世代がやってきます。

第二次世界大戦を生き抜いた祖父たちから多くのことを学んできたように、私たちも多くのことを次の世代に手渡していく必要がある、と考えています。


それは一言でいえば「生きる術」です。


「おばあちゃんの知恵」なんてよく言われます。日々の生活をもっと便利に、もっと豊かにするためのさまざまな知恵です。私からみた祖母はちょうど戦中戦後の世代ですから、モノがない時代を生き抜いた人でした。その状況でいかに生活していくか、というのはまさに生きることそのものです。

 

「生きる術」は時代によって異なります。
石器時代には食糧の確保が生死を分けました。戦争中では殺し合いの中で生き残ることが必要でした。
現代の日本ではどうでしょうか。


それが、私たちが次の世代に手渡していけるものだと、考えます。

理不尽さとともに生きる〜東日本大震災から2年目に思うこと〜

w'AND illustration代表の佐藤祐輔です。

もう間もなく、東日本大震災から丸2年になりますね。
そろそろあの地震があったことを忘れた方もいることでしょう。

 

私は東日本大震災の被災者です。

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当時、私は仙台に住んでおり、職場であの地震を体験しました。

震度6弱という強烈な揺れは人生で初めて。すぐにデスクの下に隠れたのですが、重たいレーザープリンターが目の前に飛んでくる、という恐怖体験をしました。もう生きた心地がせず、半ばパニックになっていたようにも記憶しています(※だいぶ回復してきていますが、実は一部記憶の欠落がのこっています)。

地震の影響で東北新幹線は1ヶ月間不通。仙台市内でも2〜3日程度の停電と1ヶ月程度のガス停止。地震直後の数週間は物流が滞り、政令指定都市であるにも関わらず、食糧やガソリンが不足するという未曾有の事態に陥りました。
幸い、親戚や友人に死者はありませんでしたが、沿岸部でカキの養殖業を営んでいた母方の実家は津波にのまれてしまいました。祖母らはいまだ仮設住宅暮らしです。

 

この地震の体験から私が学んだことは“人生は不平等で理不尽だ”ということです。
そして“それでも我々は生きていかなければならない”ということです。

 

“ライフ オブ パイ”と“ヨブ記”

Bibleible / Savio Sebastian

先日、“ライフ オブ パイ”という映画を観てきました。

インドで暮らす少年パイが、家業の事情でカナダに引っ越すことになります。家では動物園を経営していたため、貨物には動物たちも積み込んでいます。インドを出発してマニラを経由、太平洋に出たとき、大嵐に遭遇。嵐のために船は沈んでしまいます。かろうじて救命ボートに乗ることができたパイでしたが、そのボートには船に積み込んでいた獰猛な虎も一緒に乗り込んでいたのでした。
227日間にもおよぶ漂流生活を送ることになるパイと虎。獰猛な虎であるにも関わらず、パイはなぜ生き残ることができたのか?

こんなあらすじの映画です。

この映画を、私は旧約聖書の“ヨブ記”のようだと感じました。
“ヨブ記”とはどんな苦難にあっても信仰を捨てなかった男ヨブの物語です。

ヨブは信仰が厚く、子宝にも財産にも恵まれた祝福された男でした。ある日、神の前にサタンが現れ、ヨブの信仰を試すよう、そそのかします。神はその挑発にのり、ヨブから財産を奪ったり、最愛の者を奪ったりします。それでも信仰を捨てないヨブを、サタンは皮膚病にかからせます。友人たちはヨブに何か悪いことでもしたのではないかと問いかけますが、高潔なヨブには心当たりがなく、反発します。
ついに神はヨブに語りかけます。最終的に神はヨブの義を認め、以前にもまして豊かな財を与え、140歳まで生き、天寿をまっとうします。

ヨブ記は旧約聖書の中でも難解な書であるとされています。
たしかにヨブは最終的にその信仰の厚さを認められて祝福されます。しかし、そもそも神がヨブに試練を与えたのはサタンとの賭けのためでした。
ここから、ヨブ記を「人生は理不尽な出来事に満ちあふれているが、それでもすべてを受け入れ、信仰を失ってはならない」というメッセージが読み取れます。

※ヨブ記の詳しい解釈はこちらをご参考になさってください。
ヨブ物語 01 「ヨブ記とはどのような書か」

 

“ライフ オブ パイ”の一番の見所は「パイが逃げ場のない救命ボートの上で獰猛な虎といかに共存したか?」という部分につきます。
しかし、パイが227日間もの漂流生活に至ったのは因果応報でもなんでもなく、ただの偶然にすぎません。そう考えると、パイが突然そんな試練に放り出されてしまったのは、極めて理不尽なことだとも言えます。

 

人生は理不尽

Tsunami aftermathTsunami aftermath / Official U.S. Navy Imagery

私は“人生は不平等で理不尽なものだ”と考えています。
2011年3月11日の東日本大震災で被災して、その考えをいっそう強くしました。

幸い、私自身は部屋がめちゃくちゃになった程度で済みました。
一方で、祖母は津波で家を流されてしまいました。
死者はなかったものの、怪我をしたり仕事を失った親戚がいます。
津波にのまれながらなんとか生きのびた友人もいます。

もしあの地震が因果応報の結果であるとしたら、私の祖母や友人らにはどんな罪があったのでしょうか?
私の祖母はごくごく素朴に暮らしていた養殖業者です。頑固な祖父と結婚し、戦後のモノが少ない時代に5人の子どもを育て上げました。唯一悪いことといえば、夫の頑固さ加減にうんざりして一度家を飛び出したことくらいですが、それで家まで奪われるいわれはありません。

だから、私自身はあの地震を「極めて理不尽なできごと」と受け止めています。
その後の原発事故などまで含めて「奢った人類への警鐘」ととらえる方もいらっしゃいます。
が、私は「意味などなく、ただとても理不尽な出来事がおこった」と考えています。
もちろん、地震によって防災意識の高まりや市民の政治意識の高まりがあったことはたしかです。けれども、それらは結果にすぎず、地震そのものの意味ではない、と私は考えます。それはまるで、神がサタンとの賭けでヨブを不幸に陥れたかのようです。

 

それでも生きていく

oh nooh no / gagilas

幸いなことに、私はまだ生きています。
それは「地震があった」ということと同じくらい、たしかな事実です。
※「生きている」ということそのものに対する疑義もあるでしょうけれど、それは今回は考えないことにします。

「人は皆、しあわせになるために生まれてくるんだよ」
そんなことばをあちこちで目にします。
そのように考えることで救われる方がたくさんいらっしゃることは、私も知っています。
けれど、その言葉そのものをこころから支持することは、私にはできません。
人が皆しあわせになるために生まれてきたのなら、なぜあの地震でなんの罪もない2万人近くの人たちが犠牲になったのですか?

 

私たちの目の前にあるのは、生と死というきわめてシビアな現実です。
その現実を直視せずにキラキラと上辺を飾ったことばにすがっても意味はないと、私は考えます。その上で、自分にとってのしあわせとはなんだろうかと、考えていかなければいけません。

そのシビアな現実のなかで生きていく、と私はあの地震のあとにこころに決めました。